昼下がりに掃除を終えた僕は、部屋を見渡した。
棚にぎっちりとマンガが並ぶ中で、数冊のビジネス書が目立つ。
精神的に極限だった時、すがるように買ったものだった。
一冊を取ってパラパラとめくってみる。
この本の言葉を糧にがんばれた時期があったけど、間もなく僕の精神は押しつぶされてしまった。
端が折られているページがある。
当時も誓ったであろう想いが、今と重なって込み上げてきた。
僕は本を閉じ、パーカーを着た。
「おや、散歩ですか?感心ですね」
メラン大佐がUFOの中から顔を出す。
「ちょっと用事を済ませてくる」
「いいですね。どちらへ?」
『本を読みたくなってきた』
一瞬、妙な感覚がして戸惑う。
自分の外側と内側で、声がダブって聞こえた。
「読書はうつー人の至宝です。自分の求める時が最適なタイミングですよ。私など、一日に少しでも読書をしないとソワソワしてしまうほどです」
メラン大佐は『ワンピース』を手に持っている。
少し前までは、雑誌でさえも読もうとすると文字が踊るようにうねって見えて、気分が悪くなっていた。
こんな気分になれている自分が嬉しい。
「だね。本屋に行ってくるよ」
「もちろん私も同行します」
僕は警戒する。
「もうイーロンはいいからな」
「今日は透明化して行きます。全米を嗚咽の渦に巻きこんだ感動ベストセラーの映画化で主役抜擢された来春公開を控えるハリウッド俳優レベルのイーロンの姿では、目立ちすぎて本屋の秩序を乱してしまいそうですからね」
「なんか、またスペックが盛られてるな。言っとくけどイーロンはズルだからね。実際はマンガみたいなちんちくりんの宇宙人で、何のへんてつもないグレイで、額から触角がニョーンと生えてるからね」
「キシャァァァァァァァァァァァァァァァァ」
突然おぞましい奇声が響き渡る。
メラン大佐の姿がシルエットになっていた。
ゴキゴキと音を立てて、後頭部が長く伸びていく。
背中からは呼吸器のようなものが生えてきた。
腕と足はそれだけで武器になりそうな骨格が剥き出しになり、体長は明らかに2mを越えている。
ムチのようなしっぽの切っ先が僕に向けられた。
開いたアゴからは粘度のあるよだれが垂れている。
その黒光りする姿形は、もう、完全に、エイリアンだった。
「お望みならばこちらの形態でも対応は可能なのですがねキシャァァァ」
「うす!いつもの、あの愛くるしいグレイの方でお願いしまっす!!!!」
僕は振り返らずに、玄関を飛び出した。
*
駅ビルに入っている本屋は、そこそこ有名な書店だった。
雑誌やマンガを買う時くらいしか利用していなかったけど、改めて見ると店内はかなり広い。
{ほほぅ、それなりの規模ですね}
隣のメラン大佐が話しかけてくる。
正確には、僕の意識に声を送り込んできた。
{なんかこれ気持ち悪いんだけど}
僕も同じように、意識からメラン大佐へと言葉を送り返す。
宇宙技術でテレパシーのような会話が可能になっていた。
{すぐ慣れますよ。私が透明である以上、ユッキーが一人で会話をしているのが周囲に見られるのはまずいですからね}
{まぁ確かに}
僕は周りを確認する。
店内は平日の昼間にも関わらず多くの人で賑わってる。
これだけの人が本というものを求めている証拠に思えた。
{あ、ユッキー!ちょっと雑誌を見ましょう}
{なに見んの?}
{Ocean’sです}
{まさかのチョイス}
{あ、最後の一冊ですね。ユッキー、早く取ってください}
僕はOcean’sに手を伸ばす。
ところが、タッチの差で横のおじさんに取られてしまった。
おじさんはすぐに立ち読みを始める。
{あ~ぁ、ユッキーがモタモタしてるからですよ}
{仕方ないだろ、あきらめて}
僕は内心ほっとした。
人の目が異様に気になる僕にとって、ファッションというのはとてもハードルが高い。
人からどんな風に見られるか洋服を通してデザインするのは、今の感覚では無理に思える。
{ちょっと、私は後ろからシェアさせてもらいます}
そう言ってメラン大佐はおじさんの真後ろに立ち、肩にあごを乗せる勢いで覗き込んでいる。
プレッシャーをかけているようにしか見えない。
ページをめくる手を止めたおじさんは、ゆっくりと振り返った。
透明になったメラン大佐と鼻先5cmほどで正対している。
おじさんは眉をしかめて首をかしげると、再びOcean’sに目を落とした。
{なかなか勘が鋭いですね}
{そんなに接近されたら気配も感じるわ}
{むぅぅ腕時計のページから先に進みませんねぇ。あ、ちがっ、キャンプ用品特集じゃなくて服のページにいきなさい!もう!やむを得ませんね}
メラン大佐はおもむろに、おじさんの頭の上に触角を乗っけた。
{やめろ!ちょんまげみたいになってるから!}
おじさんは身体をビクつかせ、頭に手をやる。
メラン大佐はすでに距離を取っていた。
恐る恐る振り返ったおじさんは誰もいないことを確認し、軽く身震いするとOcean’sを置いて逃げるように去って行った。
{めちゃくちゃかわいそうなんだけど}
僕はほっぽり出されたOcean’sを手に取る。
{んで、どのページ見たいの?}
{ユッキー、私お腹が痛くなってきました}
{おじさんの時間を返してあげて}
{なんなんでしょうね、この本屋にて訪れる現象。思うのですが、この場所自体が著作物、つまり著者の生み出した物で溢れている訳です。アウトプットの集大成、アウトプットの抽出物が集まっている場所な訳です。そんなアウトプットのパワースポットとも言えるべき場所で、私のアウトプットが刺激されるのは、これはもう完全に必然なのでしょうね。私も先人に習い、腸内アウトプット欲求を満たして来ます}
{いやそれただの便意だからね}
{こーゆー時に限って、個室トイレって埋まってるんですよぇ。あと、フロアごとに男女のトイレが交互に配置してあるデパートはダメですよね}
{もういいからさっさと行って来て}
尻筋に力を入れながら歩くメラン大佐を見送る。
やっと落ち着き、僕は店内をぶらついた。
美術特集なるコーナーが目に入る。
そこには僕の好きなフェルメールの本も何冊か並んでいた。
画集は持っていたが、解説本は読んだことがない。
僕はその解説本を迷わず手に取る。
そのまま自然と、ビジネス書や自己啓発本のコーナーに足が向いた。
書店員オススメ本やベストセラーが平積みされている。
どれも魅力的な内容だった。
気になった本をかたっぱしから立ち読みしていく。
ふいに、僕は棚差しの一冊に目を奪われた。
そのタイトルは、まさに今の僕の心境を一言で表していたのだ。
棚から本を引き抜く。
なんだか手触りも心地よかった。
1ページ目をめくる。
周囲の空気感というか、香りが変わったような気がした。
書いてある言葉の一つ一つが胸に浸透する。
僕は夢中でページを送った。
文章の一つ一つが、驚くほど心と連動している。
意識と思考が軽くなり、境界線が消えていく。
著者と僕だけが真っ白な世界で向き合って会話している、そんな感覚が広がった。
気づくと、第一章を読み終えていた。
指で確かめると、それなりのページ数を読んでいる。
時間の感覚もすっ飛ばすほどに集中していた。
全てが僕の頭の中にあることを代弁しているようで、全てが僕の知らないことを察して授けてくれているようだった。
間違いない。
これは僕が今読むべき本だ。
少し熱っぽくなっていたけど、そんな感情が自分の中に存在していることが嬉しかった。
{ユッキー、決まったのですか?}
メラン大佐が戻ってきていた。
二冊の本を見せ、僕はうなずく。
{たぶん、運命の本だ}
{それは素晴らしい!運命本や当たり本というのは、うつー人の魂を美しく磨き上げる人生のパートナーとも言える物ですからね}
僕はもう一度うなずき、レジに向かう。
立ち並ぶ本棚を一つ通り過ぎる度に、その世界観が伝わってくる。
ふと、さきほどのおじさんがいるのが見えた。
熱心に立ち読みをしている。
{おや、さっきのおじさんですね。今度は何を読んでるんでしょう?}
メラン大佐も気づく。
僕は目をこらした。
おじさんの読んでる本のタイトルを確認して、焦った。
{もうほっといてあげよう!さっさと行くぞ!}
{なんですか、やぶからぼうに。あの中年の御仁が一体、何を読んでいるというのです?}
{おい、やめとけって!}
メラン大佐は数歩進むと足を止め、表情を硬直させた。
おじさんが読んでいたのは、『背後霊と宇宙人が存在しない100の理由』という本だったのだ。
僕は、フォローせねばという気持ちでいっぱいになる。
{いや、人それぞれだからね。こーゆーの信じるも信じないも。それにさっき透明化して後ろにつきまとってたし。だからさ、あんま気にしない方がいいよ}
プルプル震えるメラン大佐の背中に声をかけた。
{ユッキー、私は気にしてなどいませんよ}
メラン大佐は無表情だったが、思ったほどショックを受けたようには見えず、僕は安心する。
{ただ少し果たさねばならない用事ができましたので先に帰っててくださいキシャァァァァァァァァァァァァァァァ}
{すっごい気にしてるぅぅぅ!!!!}
こうして、エイリアン化して暴走しかけたメラン大佐をなだめるのに僕はありったけのボキャブラリーを駆使した。
本を読んで語彙力をつけるのって、大切だ。

【うつになったら、本を読むしかない】
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