部屋の中が、いつの間にか白い光で包まれていた。
天井も、床も、壁も消えている。
僕とメラン大佐は大きな光の球体の真ん中で、宙に浮いているようだった。
実際に身体も軽く感じる。
『これも、宇宙技術?』
『違います。ここは、ユッキーそのものです』
メラン大佐の言っている意味が分かってしまう。
そんな自分が寂しくなった。
いつだって、僕は僕の中にいた。
『夢、なのかな』
『それも違います。現実のことです。日々を大切にしたり、ないがしろにしたり、できたりできなかったり、それでも何か一つのことを達成できた喜びを少しずつ積み重ねて暮らしていく。それが現実ではなく、一体なんだと言うのでしょうか?』
メラン大佐は肩をすくめる。
僕も、そう思った。
『でも楽しかったよ。今までになかったくらい』
『もちろん私も楽しかったですよ。ユッキーという人は、短気で、怒りっぽくて、イライラしがちで、すぐアヘアヘ言って、とてつもなく器の小さい人物だと再認識しました』
『意味がほとんど一緒の悪口を並べるな。そして勝手にアヘアヘとか入れるな』
チョップしようとした僕の手を、メラン大佐はうまくかわす。
その少しの風圧で、あたりに漂う帯状の金色の光が揺れた。
陽の光を浴びて輝く波間のようだった。
『まぶしいね』
『目を閉じてください』
漆黒の闇が広がる。
『極端だ』
真っ黒な視界に、小さな白い点が浮かび上がってくる。
いくつもあった。
それは光の粒だった。
それは、星の光だった。
星の数は瞬く間に増え続け、やがて銀河になった。
『何度見ても、この宇宙の景色はすごいね』
『人間の身体は地球の模倣をしています。地球は、宇宙の模倣をしています。つまり、人間も宇宙の一部なのです。これは、ユッキーの内面を映し出しているにすぎません』
僕は黙って銀河を見つめる。
こんなに壮大な光景が自分の中にあるなんて、信じられなかった。
『見てください』
メラン大佐の指し示す方向に、球体型の機械のような物が見えた。
はるか遠くにあるのに、それが凄まじく巨大なものだと分かる。
『あれも、ユッキーの内面を現す物の一つの形です』
『なに?』
『デススターです』
『スターウォーズの帝国が保有する超巨大宇宙戦艦を不用意に登場させるな!』
僕が手を振ると、ほこりを拭かれた窓ガラスのようにデススターの一部が消える。
数回、手を動かすと完全に無くなってしまった。
『もう少し分かりやすくしましょう』
メラン大佐がそう言うと銀河が消え、また完全な闇になった。
『今度はなに?』
『谷底です』
その言葉に馴染みのある自分がおかしかった。
少し前の僕は、人生の谷底にいた。
『ユッキーは谷底で、さらに目を閉じていましたね』
僕はうなずいた。
『暗闇以外、見える訳ないよな』
『まず始めに、何をしました?』
鼻先に闇を感じる。
僕は、上を見た。
『それですね』
小さな、白い点があった。
たった一つの、光の粒だ。
今度は星じゃない。
光がにじんで、揺れて、少しずつ大きくなっていく。
目が慣れてくる。
光は穴から差していた。
うっすらと、岩肌が見えてきた。
そこからつながっているこの場所が、本当に谷底なのだと分かる。
光を見つめる。
青く、光っていた。
『空?』
『ちゃんと見えていますね』
小さな穴の中に、青空が見えた。
口を広げるように、岩肌がゆっくりと広がっていく。
揺れる木の枝や草花も見える。
それは、僕らの浮かんでいた白い光の球体のような強い輝きではなかったけど、すごくまぶしいものだった。
『遠いね』
『なにせ谷底ですからね。ユッキー自身が作り上げて、ユッキー自身が座り込むことを決めた場所です』
『そうだよな』
なんでここに落ちてしまったのか、なんでここを選んだのか、自分でも分からなかった。
『みんな、地上にいるんだよね』
『ユッキーの言う地上という概念が存在するとします。その場所に立つことを選んだ人間は、望み通りに、地上とやらにいることでしょう』
みんな、地上から青空を仰いで、太陽の光を浴びて、木の枝や草花を揺らす風を感じているんだろう。
僕は、それにひどく嫉妬していたことを思い出す。
つまり、今の今までは忘れていた。
『そこですね』
メラン大佐が言う。
『執着は、手放されました』
声が響き渡った。
『みんな、地上から青空を見てる。僕は、谷底から地上を見てる。青空は、またその次だ。みんなはゼロからイチを目指してる。僕はマイナスにいるって、ゼロにすら達してないって、ずっと思ってた』
『地上から見える景色は素晴らしい。それは間違いありません』
小さな丸にくり抜かれた景色が、輝いている。
『もう分かりますね。谷底で暗闇を目に焼き付けた後、這い上がった地上で見る景色は、どう映りますか?』
『ウソみたいに綺麗だった』
次の瞬間、青空が目の前いっぱいに広がった。
太陽の光が降り注ぎ、雲が流れ、草花がどこまでも続いている。
雪をかぶった山々の稜線が走り、反対側の遠くには海が見えた。
まぶしさに目を細める。
足元はまだ岩肌にかかっていた。
暗闇。
影。
それらは僕の視界の端々に存在していた。
『ユッキーの言っていた、フェルメールの話と同じですよ』
僕はようやく、自分で言っていた言葉の意味を理解する。
『影によって光が際立つのです。光によって影は表出するのです。二つで一つです。暗闇の恐ろしさを知っているからこそ、光明の美しさを誰よりも感じることができるのです』
世界に、色彩が完全に戻っていた。
それは、前に見えていたはずのものとはまるで違っていた。
その美しさを僕は生まれて初めて見たかのように感じた。
気の遠くなるような影の色彩が積み重なることで、光はその奥深さを増し続ける。
『影も、また人生の一部なんだな』
『影が人生、とも言えます。光が人生とも言えます。両者は同じ意味なのです』
つらい、きつい、苦しい。
遠くに押し退けようとしていたものだ。
そうすればするほど、それらは僕にしつこくまとわりついて来た。
『負の感情も、ユッキーが生み出しているものです。消そうとされれば、彼らがあらがおうとするのは自然だと思いませんか?』
なぜ、負の感情を抱いたのかさえも、僕は考えないようにしていた。
悪いものだと決めつけて、生まれた瞬間に心のどこかへと追いやっていた。
でも、消えてなんていなかった。
全力で、僕が感じた情動として、いつも何かを訴えていたんだ。
『絵の中では影が美しいものだと思ってたのに、現実では、心の影を邪魔者にしてるなんて、ひどい話だな』
『理屈が通らないことをしてしまうのが人間です。うつー人は、それを少しずつ擦り合わせていく力を持っています』
メラン大佐が指を差す。
胸が熱を帯びていた。
『もう、そこには無限のうつーが広がっていますよ』
光を求める。
影を抱える。
気質は持って生まれたものだ。
それを後から得た感覚で正そうとすれば、不合理が出るのは当たり前だ。
ネガティブでもいい。
そのままでも楽しめるように工夫すればいい。
一緒に過ごした日々の中で、メラン大佐はそれを教えてくれていた。
『私が何者か、気づきましたか?』
少しずつ、その輪郭が光に溶けていた。
『なんとなく』
メラン大佐はうなずく。
『その予感は当たっているでしょう。そうです、私は』
漠然とした想いが胸に溢れた。
きっと、ずっとここにいたんだ。
『ユッキーの父親です』
『ちがうだろ』
『強くなったなコー、ホー』
『ダースベイダーのマネとかいいから。さっきからスターウォーズのネタやめて』
確信は持てなかったけど、なんとなく感じていたことだった。
メラン大佐の正体。
『僕、なのか?』
『ブー!ブー!ブー!違いますぅ-!不正解ですぅー!』
『うわムード台無し』
『まぁ私の正体など、さして重要なことではありませんね。ユッキーはユッキーです。あなたのように悩み、あなたのように苦しみ、そしてあなたのように人に優しさを与えられる存在は、この宇宙のどこにもいません。それを受け入れることができたのなら、もう他に必要なものはないでしょう』
メラン大佐が手のひらをかざした。
その身体は半透明になっていて、光が通り抜けている。
『そろそろ、うつーに帰る時が来たようです』
『ちょっと待ってくれ!』
僕は焦った。
『もうちょっと!もうちょっとだけここにいてくれよ!』
『大丈夫です。ユッキーはうつー人として、完全に覚醒しています。これからも様々な事象が待っていますが、その全てに対して向き合い、乗り越えていくことが可能です』
『いやまだそんなことないって!』
僕は必死になっていた。
不安がない訳がなかった。
『もうコリ・コリックも必要としてないほど、その心の中にはうつーが溢れています。気づいていたでしょう?少し前から、うつーから発せられるエネルギーをユッキーは自分自身で言葉にし、行動に移していたじゃないですか』
『それは一緒にいてくれたからだよ!一人じゃ無理だって!触角のツボも分かってるからな!ほら!』
僕はメラン大佐の触角をつかんだ。
『ふふん、ユッキー。そんな風にしたところで私の触角はピクリともしませんよ』
『くそっ、こうか?こうかな?コリ・コリックしてくれよ!頼むよ!』
『いくら触角をつかんだところでコリッ、私がそんな簡単にコリ・コッ、反応するとでもコリ・コリッ、思っているのですかコリ・コリッ、…くぅぅぅぅぅぅ!!!!!!』
『あと一息じゃねーか』
『やりますねぇ。やはりユッキーほどのうつーを持つ人類を見たことがありません』
メラン大佐は笑った。
その笑顔はさらに光となじんでいく。
『この先の日々で行き詰まった時は、胸にうつーが在ることを思い出してください。必ずしや、ユッキーのお役に立てる気づきが得られるはずです』
僕は黙った。
もう何を言っても無駄なのだと分かった。
これからは自分一人でやっていくしかない。
それが、メラン大佐と過ごした時間に対する感謝になるんだ。
『また、会えるよな?』
それでも僕は信じたかった。
『不思議なことを言いますね。うつーは、いつだってユッキーの中にあるのですよ。私はうつーの一部です』
『分かるよ。分かるけど、なんて言うか』
『安心してください。ユッキーが、ユッキーを楽しみ、ユッキーとして生きていくのです。そうすれば私達は再び、再会するとなるでしょう』
『僕を、楽しむ?』
『そうです。ユッキーという人間の中のうつーは、おもちゃ箱をひっくり返したように楽しいものだったじゃないですか。あんなに素晴らしい場所を内側に閉じ込めておくのはもったいないです。少しずつでも、不器用でも、ユッキーという世界を周囲に伝えていってください。それが、人類にも影響を与えるのですから』
『また大げさな』
『大げさではありません。必ず、できます。私は信じています』
メラン大佐の背後から強烈な光が差した。
僕はまぶしさに目を細める。
『分かったよ!やってみるわ!』
『素晴らしい』
金色の光が膨らみ、全てを包み込む。
メラン大佐の輪郭が遠く、小さくなっていく。
『ありがとな!いつも強く当たったりしてごめんな!ホントに、むちゃくちゃ楽しかったわ!』
メラン大佐のシルエットが、手を振っているのが分かる。
『ユッキー!」
『なんだー!?』
「ずっと聞きたかったのですがー!』
『おーう!?』
『アーターサンダギーなのですか?サーターアンダギーなのですか?どっちが正しいのかいつも分からなくなるのですー!!』
『サーターアンダギーだ!サーターは砂糖、アンダは油、アギーは揚げ、って意味からだと覚えやすいぞー!』
『なるほどアーターサンダギーですねー!分かりましたー!』
『サーターアンダギーだー!』
『あと、ウユニ塩湖ですか?ウニユ塩湖ですか?』
『もうこれ無限に続くぞー!とっとと消えろー!』
『最後の最後までひどいですねー!だからユッキーはスコポチャル』
メラン大佐が光の中に消えた。
まぶしさだけが残っている。
細めていたはずの僕の目は強く見開かれ、光を真っ正面から映していた。
身体が浮いている。
あたたかい。
手と足を、腹の前でたたむ。
なぜ呼吸できているのか分からない。
ふと思う。
『スコポチャルってなに?』
暗闇に囲まれる。
その道は細く息苦しい。
僕を呼ぶ声がする。
また、一筋の光が見えた。
今までとは違う輝きだ。
進もう。
もうすぐだ。
壁が上に、天井が横にあった。
床に寄りかかったまま、目を覚ます。
僕は泣いていた。
しずくが目尻からシーツに染みこむ。
濡れた軌跡はぬくもりを残していた。
今、流れた涙なのだと分かる。
身体を起こす。
反対側の目からもう一粒、しずくがこぼれ落ちた。
天井を見上げる。
荒い修復の跡は、きれいさっぱり無くなっていた。
いつも通りの、変な模様の壁紙が貼ってある。
部屋の隅を見る。
UFOはどこにも見当たらなかった。
それでも僕は確信していた。
夢じゃない。
それが真実なのは明らかだった。
窓から日が差している。
身体は軽やかなリズムを刻んでいる。
部屋に慎ましい空気が流れている。
なにより、胸の中の熱さがそれを物語っている。
うつーはここにある。
僕は着替える。
少し遠いけど、あそこへ行こう。
衝動を押さえられなかった。
飛び出すように玄関を開けると、少し肌寒かった。
冷たい空気が、肺に流れ込む。
世界との境界線が消えていく。
僕は、昔よく通っていた画材屋に向かった。

【うつになったら、本当の自分に出会うしかない】
「ぼちぼち出るよ」
僕はネクタイの結び目を整えながら言った。
「おい、もう出るってよ!」
父さんが、母さんを呼ぶ。
「ちょっと待ってよ!こんな風に出かけることなんてないから何を着ていいんだか」
「さっきの、そっちでいいだろ!そう、それ。早くしろ!」
そう言いながら、父さんも慣れない背広には居心地が悪そうだ。
母さんがふすまの向こうから顔だけを覗かせる。
「あんた、ゆきおの絵が動いてるのが見れるなんて、ホント、信じられないわ。でもかーさんは昔からあんたには才能が」
「いいから早くしろ!」
父さんが大声を出し、母さんは顔を引っ込める。
「まぁ、ぼちぼちだから。そんなに焦らなくてもいいよ」
「おまえの晴れ舞台なんだからな。キチッとしたいんだよ、おれは」
「晴れ舞台ってか、試写会だから」
前よりずいぶんと片付いた実家の様子を眺る。
ふいに部屋の隅に置いてある段ボール箱が目に入った。
マジックで『ゆきお』と書いてある。
「これ、何?」
やたらと大きいその箱を持とうとしたけど、かなりの重さで簡単に上がらなかった。
「あぁ、おまえが描いてたラクガキだよ。かあさんがずっと取って置いたんだと」
「そうそう、あんたの展覧会で発表された絵とかも入ってるのよ。時期とかはバラバラになっちゃってるけど、おとうさんとかーさんに見せてくれてた時期のは全部、しまってあったのよ。昔からあんたは」
「いいから着替えろ!」
「はいな!」
父さんの怒号の語尾にかぶせて母さんは返事をして奥に消える。
僕は箱を開ける。
一番上にあったイラストを見て、驚いた。
「なつかしいな」
父さんが覗き込んでいた。
「おまえ、一時期やたらとその絵を描いてたよな。本当に遭遇したんじゃないかって疑うくらいに」
おそらく小学生の頃の絵だった。
「オリジナルキャラだ!って言って喜んでたわよね」
母さんも覗き込んできた。
二人に挟まれ、僕は自分の足元に子供の頃の自分がいるように感じた。
その絵には見覚えがあった。
顔の半分はある真っ黒な目に、上向いた鼻。
口とあごは小さく、頭は大きい。
肌は灰色がかった白一色。
そして、頭に一本の触覚が生えている。
少し違うのは、子供の頃のものとはいえ、僕の描いた姿の方が実物よりもカッコいいってところだな。
『困った時はね、こいつが僕を助けてくれるんだ!』
声が、重なった。

メラン大佐とコリ・コリック 完