「ユッキィィィィ!!!!」
「なんだよ!?どうした!?」
台所から叫び声が聞こえた。
戸口から覗くと、メラン大佐が天井を指差している。
黒点が見えた。
「ゴ、ゴ、ゴ、ゴキッ、ゴゴゴゴキッ」
「なんだよゴキブリかよ」
「忌まわしきその名を口にするんじゃありません!!」
「一人暮らしのOLか」
「わ、私は、この生命体だけは宇宙で唯一、苦手なのです。ゴ、ゴ、ゴ、ゴキッ、ゴゴゴゴキッ」
「もういいから」
「早くどうにかしてください!」
「わかったよ。ちょっと待って」
肩すかしを食らった僕の足取りは、面倒臭さを抑えきれない。
「モタモタするんじゃありません!もっとシュッと行動しなさいな、シュッと!!逃げたらどうするんですかぁぁぁ!?」
「うっさいなー」
僕はライトセーバー(丸めたチラシ)を持って、台所に戻る。
「どこ?」
メラン大佐がにらみつけてきた。
「ユッキー。あなたが悠長なことをしてる間に、どこかに逃げてしまいましたよ」
「ずっと見てたろ!?なんで見失う!?」
「見てませんよ!見てたら『なに見てんだこいつ飛びかかってやるか』と、襲ってくるかも分からないじゃないですか!」
「部屋にいると分かってて姿が見えないのは、僕だって気持ち悪いわ!」
「全てはユッキーの責任です!あなたがテレンコテレンコしてるからぬぼぁぁぁ!!!!」
メラン大佐が僕の背後を見て叫んだ。
振り返ると、ヤツが壁にぴたりと貼りついていた。
手に力が入る。
自分の間合いに入るまで、ゆっくり、気配を悟られぬよう、腕を近づける。
緊張が走る。
焦るな。
気が満ちるのを待て。
待て。
待て。
待て。
ふっと、力が抜けた。
満ちた。
今だ!
「早く仕留めなさいな!!」
メラン大佐が叫ぶ。
腕が反射的にビクついてしまった。
僕はエクスカリバー(丸めたチラシ)を力任せに振り下ろす。
ブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブブ
「うぉぉぉ!!!!」
思わず声を上げてしまった。
ヤツが飛んだ。
かがんだ僕の頭上を越えていく。
向かった先には、メラン大佐が立っていた。
「きぃえええぇぇぇぇ!!!!!!!!!!!」
メラン大佐がスマホをかかげる。
『ヴンッ』という音と共に、ゴキブリを中心にした空間に直径1メートルほどの黒い球体が現れた。
およそ現実のものとは思えない質感だ。
冷蔵庫の上部と壁の一部も、その陰にかかっていた。
怒りの表情を浮かべたメラン大佐が、スマホを勢いよく振り下ろす。
「次元の彼方に消し飛べやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
「キャラ変わってる!」
メラン大佐のかけ声と共に黒い球体は急速にしぼんでいき、やがてゴキブリと共に消えて無くなった。
冷蔵庫の上部と壁の一部も、消えて無くなった。
「なにしてんの!?色々と球体型にくり抜かれてるじゃんかぁぁぁ!?!?」
「次元の彼方に強制転送してやりましたよ」
「次元の彼方ってなんだよ!?」
「次元の彼方とはブラックホールの一部でして、そこには時間の概念もなく、死も腐敗もありません。あの忌まわしき生命体は未来永劫、その閉ざされた空間でさまよい続けるのです。クックックッ…」
「こっ、怖ぇ…」
僕らはテレビの部屋に戻った。
「あぁ、ひと安心です」
「自分の家とかで出たらどうしてんの」
「妻が対処してます」
「奥さん強いパターンかよ、情けないなぁ」
「夫婦の形は千差万別です」
UFOの周りに飾りつけてあるメラン大佐の奥さんの写真、奥さんの肖像画、オリジナル奥さんTシャツを見た。
僕にはメラン大佐との区別がほとんどつかない。
「奥さん、どんな人なの?」
「妻は、うつーで一番の女性です」
僕はあきれつつ、感心もした。
「言い切れるのはすごいね。結婚した友達と会うと、だいたいグチになるから」
「現代文明では陰口と呼ばれるものですね。うつーでは、その陰口という文化は滅んでいます」
「あぁ。なんか、今なら分かる気がする。
『陰口って、絶対に伝わるもんね』
人から伝わったり、何かの状況で本人に聞かれたり、なんなら陰口を言ったことが自分の顔に書いてあって、それが本人に伝わる気さえするよ」
以前、会社の更衣室で上司が僕を揶揄する話をしていたことを思い出していた。
「まさにユッキーの言う通りです。地球でも近いうちに科学的な証明がされますよ。相手のことを悪く言う発声をした音と振動は、くちびる、声帯、喉頭や肺、果ては意識と思考を通して脳にまで影響を与えます。細胞に浸透したそれは全身から発せられ、相手への否定を伝えるようにきちんと働きます」
僕はドキリとした。
人から恐ろしく冷たい目で見られた記憶もあれば、自分がそういった感情を抱いて人に接した記憶もある。
他人事ではなかった。
「言葉というのは自分に還ってきます。放った言葉が、世界を構築する要素になっているのです」
職場で蔓延していた陰口の言い合い。
その時の、周りの人間の悪魔のような笑い声。
あれをきっかけに僕の精神は崩れてしまった。
ただ、そのずっと前。
僕は、それに自分が参加していたことを思い出す。
はじめは上司のグチに共感したいだけだった。
先輩のガス抜きになればと思っていた。
同時に、僕は自分が持つ不満も交換条件のように発するようになった。
上司が言う先輩への陰口に乗っかった。
先輩が言う上司への陰口に乗っかった。
いつの間にか、僕は自分以外の全員の目を恐れるようになっていた。
がんじがらめの環境と状況になっていた。
ふと気づいてしまう。
全部、僕が自分で世界を作っていたんだ。
「ユッキー」
僕のうなだれかけた肩を、メラン大佐が叩く。
「あなたは、ゼロ地点に戻ってきました。今、ここから始めればいいだけのことです」
その言葉は僕を一瞬で救った。
そうだ。
今からどうするかだ。
「決めた。二度と人の陰口を言わない」
言葉が世界を作る。
その通りかもしれない。
「素晴らしい。ユッキーなら必ず意志を貫き、美しい世界を構築することができますよ」
「やってみるわ」
「それでは、ちょっとした練習をしてみましょうか」
「練習?」
「陰口とは、その場にいない人間の悪口を言うことです。生きている上で、怒りや悲しみを感じることがあるのは必然です。問題は、どう表現するかです。不満やいらだちを相手にうまく伝えることができれば、陰口を言うこともなく、自分の感情を押し殺すこともなく、想いを共有するという別次元に辿り着けます」
「なるほど」
「ユッキーには私と共生している上で、様々なストレスがあることでしょう。ここはひとつ、今まで口に出せなかった不満やいらだちを私に伝えてみてください」
その提案に僕は戸惑う。
「大丈夫です。ユッキーと私の仲なのですから、割り切っていきましょう。最初は感情に身を任せて言葉のトゲが飛び出てしまっても、それを少しずつにマイルドにしていき、ゆくゆくは建設的な伝え方をできるようにすればいいのです」
「そう言ってもらえると、やりやすいかな」
「こういったことを、実際の人間関係で試すのは難しいでしょう?」
「この、ちんちくりんグレイ!」
「ユッキー、まだスタートしてません。そして、その程度のぶつけ方など、まるで私には効かな」
「おでこニョーン!おでこニョーン!」
「まだ話してる途中ですし、なんで二回言うのですか」
「鼻かんだ後、なんでもう一枚ティッシュを取ってくるんで捨てる?」
「片付ける人が鼻水まみれのティッシュに触れる可能性を低くしているのです。むしろ好意です」
「いやもったいないから。あと、しょうゆを一滴こぼしたのにティッシュを丸々一枚使わないで。これ鼻セレブだからね。肌触りを考慮しての良質な素材だからね。まぁ、ある意味でセレブ的な使い方だけど」
「ふきんで拭いたらシミがついてしまうでしょう?これも好意です」
「好意って言うけど、資源の無駄遣いは地球には優しくないよね。シャワー流しっぱなしで身体洗ってるよね?」
「…あ、えっと、はい。すいません。それは妻にもよく注意されてます」
「うわ、奥さんの気持ち分かるわ。めっちゃ話したい。絶対に盛り上がる」
「あのシャワーが勢いよく出てて、湯気がぶわーってなる感じが好きでして」
「最近、太ったよな」
「………」
「けっこう、欲のままに生きてるよね」
「………………」
「グレイって言うか、食欲旺盛好色変態宇宙人だよな」
「ぐぼぁぁぁ!!!!」
メラン大佐がうずくまる。
床につっぷし、全身をぴーんと伸ばして手足だけパタパタプルプルさせている。
僕が肩に触ろうとすると、すごい勢いで手を払われた。
かたくなに取り続ける仰向けの姿勢を、なんとかひっくり返す。
メラン大佐は涙を流していた。
「ごめん」
「う゛、う゛、う゛、う゛………」
「ごめんって」
「ユッキー、ひどいです、ひどすぎます…。食欲旺盛好色変態宇宙人ってなんです?中国語ですか、それ…。もはや言葉という花のトゲどころか、さながら『死の小林檎』と称される世界一危険な樹・マンチニールの猛毒のようです…」
「全く分からない」
「それくらい私の心は灼けるような痛みを感じているということです…」
「ごめん。もうちょっとマイルドに表現できるようにするよ」
「もうダメです…。ポッキーを食べながら、ゆりちゃんになぐさめてもらうとします…」
「やっぱり食欲旺盛好色変態宇宙人んんん!!!!もうシンプルに、このバカ!このエロ!」
こうして、僕は言葉と感情を意識して放つことが、自分を、自分の世界を作っていくのだと理解した。

【うつになったら、陰口をやめるしかない】