腹の底から震えがこみ上げていた。
座っているのにヒザが笑っている。
僕の視線も、係長の視線も、机の上に置かれた白い封筒に向けられたままで、時間が止まっているようだった。
『退職願』
僕が書いたものだった。
耐えがたく重い空気に、呼吸すら忘れそうになる。
息苦しかったけど、口を開いたら撤回してしまう言葉が漏れ出すに違いない。
こらえろ。
「おまえがのんびり休んでる間、他のヤツらが必死でカバーしてたんだ」
胸を刺されたような痛みが走る。
何度も、神経が擦り切れそうになるほど、考えていたことだ。
「すいません」
僕にはもう、これしか言うことはない。
「戻ってくるのを待ってたのによ」
係長の鼻息の音が会議室に響く。
背中に、本当に何かがのし掛かったかのような重さを感じる。
後ろめたさが全身を満たし、僕は逃げたくなる。
やっぱり辞めるの、やめます。
その言葉が喉元まで上がってきた。
詰まったそれを吐いてしまえば、少なくともこの場で息を吸うことは許される気がした。
首を上に向ける。
小窓から日光が差していた。
まるで降ってくるように、その気持ちは浮かんだ。
呼吸をするのは僕だろ。
誰かの許可を得てするものなんかじゃ、断じてない。
「すいません」
なんとか、しぼり出した。
係長の目がすわる。
「そればっかだな」
機械的に取られても構わない。
僕にとって、どんな美辞麗句を並べることよりも価値のある言葉だった。
「提出しとく。総務から連絡いくと思うから」
係長が席を立つ。
つられて立ち上がると、どくんと頭の中の血管が脈打った。
心臓の音は、外まで聞こえているのではないかと思うほど大きく鳴っていた。
僕は頭を下げる。
係長は軽く手を上げた。
その背中は、かつて見たことがないほど小さくしぼんでいて、寂しさすら感じさせた。
廊下を進み、階段を降り、社員通用口から外に出る。
灰色がかった空が広がっていた。
雲に陽の光が反射してまぶしい。
空を映したような色のアスファルトが、細く続く。
*
「ユッキー」
玄関を開けるとメラン大佐が立っていた。
神妙な面持ちだ。
「どうでした?」
僕は革靴のひもをほどき、ゆっくり立ち上がった。
「提出したよ」
メラン大佐は目を合わせたまま、静かにあごだけでうなずいた。
僕も、目をそらさずにうなずく。
「い」
なにかと思ったら、メラン大佐の声だった。
「い、い」
顔を下に向け、固く握らた両手は胸の前で小刻みに震えている。
「い、い、い」
メラン大佐の動きが止まる。
僕は、どうしていいのか分からなかった。
「Yeahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
メラン大佐が両手を広げ、全身をバネにしてジャンプした。
同時に、UFOから特大のクラッカーが鳴って、紙吹雪が部屋一面に舞った。
「おわぁぁぁ!!!!」
「おめでとうございます!!!!おめでとうございまぁぁぁぁぁすぅぅぅ!!!!!!!!!!」
メラン大佐は頭と背中に羽かざりをつけていて、スパンコールだらけのビキニを着ていた。
リズムに合わせ、ステップを踏んでいる。
どこからかパーカッションがビートを刻み、サンバホイッスルが響き渡ってくる。
UFOを見ると、楽器を持ったラテン系の人達がぞろぞろと出てきて、バンドを組んで生演奏を始めた。
メラン大佐と同じような格好をした色とりどりのバックダンサーも次々と現れ、果てはきらびやかな神輿のようなものまで出てきた。
全員で踊りながら大合唱をしている。
完全にリオのカーニバルだった。
バックダンサー達は踊りながら、「オメデト、ユッキ、オメデト」と繰り返し言ってくれていた。
手を取られ、ステップを踏むようにうながされる。
恥ずかしさもあったが、僕はなんとか口を開いてみる。
「Yeahhhhhhh!!!!!!!!!!!」
自分でも驚く声が出ちゃった。
僕の中の血は、このサンバのリズムに熱く煮えたぎっていた。
「ありがとう!ありがとーう!!」
僕は踊った。
踊り狂った。
飛んで、跳ねて、側転までした。
バックダンサー全員とハイタッチをした。
バンドメンバー全員と握手を交わした。
ダンサーの一人から羽かざりを取り上げて頭につけ、適当なステップをめちゃくちゃに踏みまくった。
もう、ダンスの中心は僕だった。
メラン大佐が寄ってくる。
「ユッキー」
「言えたぞ!」
「えぇ、おめでとうございます」
「辞めるぞ!ついに始まるぞ!」
「素晴らしいですね」
「今日が僕のセカンドバースデーだ!もう一度、人生を取り戻すんだっほぉぉぉぉぉぃぃぃ!!!!!」
「あ、あの、ユッキー。時間も時間なんで、あんまり、えっと、はい。いい加減にしましょう」
「めっちゃ引いてんじゃん」
無音の部屋の中で、メラン大佐は頭を下げながらバンドメンバーとバックダンサーをUFOへと見送っていく。
たまにこっちを見ては、たぶん文句を言われていた。
僕は頭につけた羽根飾りをそっと外す。
なんなんだよ、もう。
「思い切りましたね」
メラン大佐はテーブルの上にほうじ茶を置いた。
「めちゃくちゃ怖かったけど、勇気が必要だったけど、なんとか言えたよ」
会社を辞める。
もう一度、人生の体勢を整える。
僕の出した結論だった。
今までの概念を壊して、生活の安定という縛りは、ひとまず考えないことにした。
三ヶ月ほどなら生活できるくらいの貯金はある。
差し迫る状況になったら、アルバイトでも何でもして食いつなげばいい。
「ユッキー。おそらく辞めるまでの間も、様々なことが起こるでしょう。その度に感情の揺れ動き、揺り戻しも発生すると予測されます」
現状から飛び出そうとすれば、必ず調和が乱れることを恐れる人間が現れ、いわれのない言葉を浴びることもあるだろう。
「そうだね。でも、甘んじて受け入れるよ。今の会社で社会人としての基盤を身につけさせてもらったのは間違いないからね。投資をしてもらってた訳だ。つらさがピークの時は分からなかったけど、それは本当に感謝すべきことだよね」
本音だった。
全て、僕が悪いと思っていた。
そして、周りが悪いと思っていた。
今は違う。
僕も周りも悪かったし、僕も周りも悪くない。
「覚悟はできているようですね」
メラン大佐と僕は、同時にお茶をすすった。
「とにかく、意志を伝えることができて、辞めることが決まった。あとはもう、ある程度は流れに身を任せるしかないわ」
僕はカバンからA4用紙を取り出す。
また、胸が躍るような感情が広がった。
「それは?」
「不動産屋のチラシ」
載っている物件に決めた訳じゃない。
だけど新しい場所で暮らすことを想像するのは、今の自分に取ってすごく大切で、重要で、めちゃくちゃ楽しいことだと思った。
「いつかさ、海の近くで暮らしたいと思ってるんだ」
ずっと、心の中にある気持ちだった。
今のアパートは職場もそこそこに近く、地元からも離れていないので利便性と居心地が良かった。
一人暮らしを始める時、想像できる人生の延長線上から外れていない場所を選んだのだ。
「いつか、という日が来るタイミングをお教えしましょう」
メラン大佐はスマホをいじる。
まさか、そんなことも宇宙技術で分かるのだろうか。
「それはユッキーが死ぬ時です!」
「いきなりの怖い展開!」
「死ぬ時なのDEATH!!」
「やかましいわ!」
ギュワーン!とデスメタルが流れ始める。
このBGMを流すためにスマホいじってたのか。
「全人類共通です。いつか、という日は、寿命が尽きる時です。それを待っていたら、ユッキーはおじいさんになってしまいますよ。海の近くに暮らし、何をしたいのですか?それは老後でもいいのですか?今の年齢でしかできないことなのですか?」
痛いところを突かれ、僕はうなってしまう。
「う~ん、たしかに。ずっと胸にしまってあったことだけど、実現させようとはしてなかった。
『環境を変えるのは、今この瞬間だね』
やりたいことも、住む場所も、自由にデザインしていいんだよな」
「もちろん、持て余すような、分不相応な環境へ無理矢理に飛び込む必要もありません。ただ、自分の望む環境がどうすれば実現できるかを、よく調べてみることは大切です」
「なるほど」
僕はスマホを手に取る。
海沿いエリアで、今のアパートの家賃と同じ設定の物件検索をしてみた。
すると驚いたことに、かなりの数がヒットした。
「なんだこりゃ、条件はボチボチだけど、なんなら今より広かったり、家賃が安い所まであるよ」
「世界が広がるとはそういうことです」
思えば、このアパートに引っ越してきたのは十年前だ。
今は敷金礼金がない場所なんてザラで、安くてきれいなところもいっぱいある。
どれだけ狭い視野で生きているんだ、僕は。
「少しずつで構いません。心の底から望んでいるものを見つめなおし、世界を作っていきましょう。そのために必要なことは、もうユッキーの中に芽生えているはずです」
胸が熱くなった。
言葉が自然に出てくる。
『自分と向き合うこと、だね』
『その通りです。そろそろ私の正体も、理解し始めていることでしょう?』
その問いに、僕はうなずいてしまう。
少し前から感じていた違和感の正体と同じだ。
『あぁ。なんとなく』
『素晴らしい。時間は有限です。全ては、ユッキーのためです』
環境を変えること。
それは、古い自分との別れを意味するのだと悟った。

【うつになったら、環境を変えるしかない】
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