僕のアパートから五分ほど歩いた所にある川沿いの道は、桜の木が交錯して立ち並ぶトンネルみたいになっている。
朝の内は日陰が涼しく、散歩するのに最適だった。
時計を確認すると、いつの間にか45分も歩いていた。
少しずつ、木漏れ日が強くなってきている。
僕は歩くスピードを上げた。
じんわりとTシャツの下に汗がにじむ。
軽く息が上がってくる。
角を曲がるとアパートが見えた。
部屋に入ると、メラン大佐はまだ寝ていた。
僕は軽くシャワーを浴びた。
朝は生まれたての世界。
ゆっくりと動き始める外の風景を見て、僕はそう思った。
「おはようございます」
メラン大佐が起きてきた。
バナナを食べる僕を見ている。
「おはよう」
「その様子ですと、散歩も済ませたようですね」
僕はタオルで濡れた髪の毛を拭く。
「外が動き始める前に先に動くのって、気持ちいいわー」
自分で言ってて不思議だった。
今まででは考えられない感覚だ。
「朝は思考のゴールデンタイムと呼ばれていますからね。一番、脳が活発に、素直に働くのが朝なのです。その時間帯に、それだけ前向きな発言が出るというのは、ユッキーの感性が研ぎ澄まされているということですね」
メラン大佐の言葉がすっと胸に馴染む。
「なんかさ、ウズウズするんだよね。身体の内側から飛び出す先を探してるような感覚。散歩くらいしか思いつかなかったんだけど」
そう言って笑えたのは自嘲ではなかった。
胸の中に、大きくてまっさらなスペースが現れていた。
メラン大佐も笑っている。
「素晴らしい。それでは私の出番です。コリ・コリックといきましょう」
「頼むわ」
僕の即答にメラン大佐は目をむいた。
「ユッキー、驚きました。儀式のような攻防がないのは、まるでディズニーのDVDに夢中の子供に見送ってもらえない状況のような複雑な気分です」
「いいから早くして。よいしょっと」
「そんなに雑に引っぱられたらコリ・コリックゥゥゥ!!!!」
さすがに無造作すぎたかもしれなかったけど、僕は自分の雑な一面に爽快さすら感じた。
光が放たれる。
いつもより、白く飛ぶ景色をゆっくり見つめられた気がした。
『ストレッチをしなさい』
光が消える。
メラン大佐がレオタードを着ていた。
腰に布を巻き、足元にはレッグウォーマーを履いている。
「なんで古いタイプの、そして女性用のレオタードなんだ」
レオタードの食い込みがやたら激しく、不快になる。
「やらしい目で見ないでください」
「恐ろしいほどの自意識過剰」
「ストレッチを取り入れることは、うつー人に大きな恩恵をもたらします。身体を柔らかくし、リラックスした身体づくりを進めていくと、思考も柔軟なものへと変わっていきます」
メラン大佐はそう言ってクルクルと回る。
確かにネガティブ思考がマックスの時は、肩こりや腰痛どころか、身体の背面の筋肉が全て凝り固まっているような感覚だった。
「なるほどね。んで、ストレッチってなにやればいいの?」
「お任せください」
メラン大佐がスマホを操作する。
ライトを点灯させ、部屋の隅を照らした。
光の中から人影が現れる。
「デジタル・ストレッチコーチのラブーフ師においでいただきました」
メラン大佐の紹介を受けたラブーフ師とやらは、頭にぶ厚いターバンを巻き、上半身は裸で、布が果てしなく擦り切れた半ズボンの姿で座禅を組んでいる。
骨に皮だけがついているような、脂肪のしの字も見当たらない身体つきをしていた。
「ラブーフ師は誰でもすぐできる、お手軽なストレッチを専門にコーチしています」
「絶対ウソだ。何万時間もの修行を終えた感が満載すぎる」
「見た目はそれっぽいですが、ラブーフ師はコーチを始めてまだ半年です。ひよっこです。なんならちょっとできないポージングとかあると思いますよ」
ラブーフ師を見ると、座禅のまま頭だけで逆立ちをしていた。
「あり得ない難易度のしてるんだけど」
「これはたぶん見栄です。気合い入りすぎちゃってるんです」
「見栄とかそーゆーことじゃない。間違いなくハードル高い。もうもはや走り高跳びのバーみたいな高さになってる」
ラブーフ師が口を開く。
「よゃじ夫丈大」
「逆立ちで言葉も逆になってるとか、そーゆー表現いいから」
ラブーフ師は音もなく通常の座禅に戻っていた。
明らかに達人の動きだった。
「さぁラブーフ師にご教授いただきましょう。お願いします、師」
「うむ。若いの、お主のチャクラを整えよう」
「うわチャクラとか言ってるもんー。絶対に本格派だよー」
「安心せぃ。まずはあぐらをかき、そして両手を合わせ、天に向かってしっかりと腕を伸ばしてみるのじゃ」
僕は言われた通りにあぐらをかき、両手を合わせて腕を伸ばした。
驚いたことに、それだけで少しバランスを取るのが難しかった。
後ろに重心が傾くのを押さえ、なんとか落ち着かせる。
「よいよい。そのまま10、数えるぞぃ」
ラブーフ師の口から、うなるような吐息と共にカウントが始まる。
「いーち、にーい、さんまのしっぽ」
「なんで日本式の数え歌なの」
「ラブーフ師は日本人女性の恋人がいるのです」
「いらない情報!」
「しかもユッキー、二十代ですよ」
「ホントに!?ラブーフ師いくつなの!?」
「なっぱ、はっぱ、くさったとうふ」
「ちゃんと数えてる!」
ラブーフ師は静かにうなずくと、言った。
「オッケー☆」
「なんか軽くなったな」
「お!ユッキーもう身体に効果が!?」
「違う。ラブーフ師の言動がだよ」
「いと若き者、まずは己の内なる声に耳を傾けよ。さすれば身体と精神は呼応しようぞ」
「また重さ出してきた」
低く、地を這うような声でラブーフ師は言った。
「徐々に身体を馴染ませるため、まずは泉の浅き場所から水を得るのじゃ」
僕は少し安心した。
ちゃんとこっちの状態を見極めてくれてるのかもしれない。
「さぁ次はトゥリヴィクラマーサナじゃ」
「いきなりすげー水深!ヨガだ!絶対にヨガだ!」
「なにを言っておる。エーカパーダヴィパリータダンダーサナじゃないだけマシじゃろ」
「もう分かんない。ついてけない」
「え?ユッキー、エーカパーダヴィパリータダンダーサナできないんですか?私なんて信号待ちの時とかにサクッとやってますよ?」
「ウソつけ!そんな『アキレス腱を伸ばす』みたいな手軽なやつじゃ絶対ないだろ!もっと普通のやつを教えてくれよ!」
ラブーフ師は深く息を吐いた。
刻まれたシワの奥にある眼光が僕を射貫く。
「分かったよ、もー。んじゃ腕をさ、こうやって伸ばして。そうそう、そんで反対の腕でこんな風にグイッと、いやちがう反対。ちがうって。左右反対じゃなくて上下反対。そう。そしたら気持ち良いーってとこまで伸ばして。どう?気持ちいい?はいOK。これ左右入れ替えて朝晩1セットずつね」
「抜群にカジュアルになった」
その後ラブーフ師は、ざっくりと分かりやすくて簡単なストレッチをいくつか教えてくれた。
どれも無理なくできるものだった。
僕はまたうっすらと汗をかいていた
散歩とは違う種類の爽快感が身体に広がる。
「おっとラブーフ師、時間のようです」
メラン大佐のスマホからベルの音が響いている。
「んじゃユッキー、夜寝る前と朝起きた時にさっきのやってね。ストレッチ続けてたらヨーガにも興味出てくると思うんで、そん時はメールちょうだい。ヨーガはさ、腹式呼吸で身体を動かしていくのよ。深い呼吸も身につくし、インナーマッスルもつくし、ストレッチ的要素もあるしでホントにヨーガ最強だから。おれっちもなんとかマスターしたけど、それこそストレッチと合わせて軽くでも取り入れてみてよ。ほいじゃね」
メラン大佐がスマホをかざすと、ラブーフ師はキラキラと光りながら消えていった。
「やっぱり二十代の彼女がいるとちがいますね」
「ヨガのマスターとかって、彼女作っていいの?」
メラン大佐は真面目な顔をした。
「ユッキー」
「な、なんだよ」
「さっきから気になっていたのですが、ヨガじゃなくてヨーガです」
「どっちでもいいわ」
僕はメラン大佐を無視して、ラブーフ師に教わったブリッジをした。
すごく気持ちが良い。
なんだかこれは簡単にできる。
得意なのかもしれない。
支えていた両手をゆっくりとおろし、肘で身体を支えた。
背中にくわえて首が伸び、さらに気持ちが良い。
なんとなしに片足を地面から離してみる。
バランスを取るのが難しかったけど、徐々に足を上げることができた。
つま先を伸ばし、天井に向ける。
身体のあらゆる部位が伸びているのを感じる。
めちゃくちゃに気持ちが良かった。
「ユッキー!それは!」
メラン大佐が驚きの声を上げる。
「エーカパーダヴィパリータダンダーサナですよ!!」
「ウソでしょ!?」
こうして、はからずも僕はエーカパーダヴィパリータダンダーサナを決めることに成功し、心身共に最高に充実したのだった。

【うつになったら、ストレッチをするしかない】